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アンカレッッジ!〜20世紀末の旅行事情〜関西からヨーロッパは遠かった

飛行機の羽
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20世紀末、平成前半は添乗員を生業としていた。

当時関西からの海外旅行は、伊丹空港乗り入れの航空会社の便数も増えていたため、アジア、オセアニア、アメリカへは伊丹空港から出国出来た。しかしヨーロッパへ行くには伊丹→羽田→成田→アンカレッジ→ヨーロッパ、とヨーロッパの土を踏むまでに24時間以上かかっていた。

ロシア上空(当時はソビエト連邦)を飛ぶことが出来なかったので、成田からアメリカ合衆国のアラスカ州アンカレッジ空港へ飛び、飛行機給油のため一度降機し免税店フロアで1時間ほど過ごしたのちまた機内へ戻り、アンカレッジから北極上空をヨーロッパへ、というパターンだった。当然、帰りは逆パターンである。

アンカレッジに寄港したといっても覚えているのは免税店があったことと、そこに大きなクマがいたこと。そのクマは多分剥製だったと思うがはっきり思い出せない。何せ機内でちょうど気持ちよく眠りに落ちたと思ったら到着だったので、ここでまた一仕事あると思うと、アラスカへ降り立った!という感動も薄かったのである。

同僚は軽食コーナーで必ずうどんを食べる、と言っていたが行きも帰りもその元気もなく、結局一度も食べなかったと思う。

そのうちロシア上空が飛べるようになり、アンカレッジ寄港は無くなった。

かといってまだ日本ーヨーロッパの直行便は便数少なく、数年間はモスクワ空港に寄港しなければならなかった。

それでも身体の疲れは激減。ロシアさんありがとう!と感謝したものである。

モスクワ空港は新しく明るいビルになっており、ソビエト時代の面影を感じることは出来なかったが、空港ビルディング内は撮影禁止。これは降機前、お客さまによくよくよくよくお伝えしておかないといけなかった。撮影したらそのカメラは没収されるのである。

携帯電話やスマホの登場まではまだ何年もあったので、旅行とカメラは切り離せない時代だった。

モスクワ空港ビルディング内の免税店はとても高く、お土産もほとんどなく、珍しいものといえば31(Baskin Robbins)のアイスクリームショップがあったことくらいだった。が、お値段は日本の倍。支払いはUSドルのみだったと記憶している。売り子のお姉さんがかわいらしい31の制服を着ていたことに、時代が変わったのだな、と思ったことだった。

その後関西国際空港が出来、モスクワに寄港することもなくなった。

関空から直行便でヨーロッパへ、という日が来たのは、初めてアンカレッジに降り立った日から5年後だった。

航空運賃が安くなり、比例してツアー代金も手頃なものが増え、海外渡航者は年間1000万人を超え、1500万人に達していた。

今から思えば大消費時代のど真ん中で、日本人旅行客はどの国に行ってもいたのではないだろうか。

高校、専門学校の研修旅行、修学旅行も海外が増え、一年の半分以上は日本にいない生活。

病気もしたけれど、この仕事をしていなければ出会うことはなかった方もたくさんいらっしゃり、当たり前と思っていたことは当たり前でなかったことに気づいた貴重な年月であった。

Yasuko

*人が好き。誰かの笑顔のお手伝いが何より好き。なのに *「母親失格だ!」という息子からの言葉で 彼が不登校になった時も十分寄り添えてなかったことを思い知る。...

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