20世紀末の旅行事情

私がツアーコンダクター(旅行添乗員)になったのは、干支があと一巡するかしないかで21世紀、というような20世紀末のこと。
乗り入れ航空会社の増加や為替安定などの背景があり、海外旅行者が1000万人になる前夜だったため、平均3年の国内添乗を経て海外添乗をするところ(当時の会社比)、私(、と同期の面々)は 国内添乗半年余りで海外へ出ることになった。
海外添乗の登竜門といえば当時は中国。
なぜなら中国では現地のガイドに加え、現地の添乗員も同行するので、日本の新人添乗員には心強いことこの上ない国だった。
ところが、いざ中国!と構えていた矢先、天安門事件が起こり
中国へのツアーは全て中止。
なので登竜門をくぐらず飛び越えて、アジア、オセアニア、アメリカ方面の仕事(ツアー)をすることになった。
その後ヨーロッパ研修を経て”もうどこへでも行けるよ” という駒になった(当時の会社比)が 、駒なので添乗先はツアー内容、キャリアにより会社が決める。
お客様の評価やレポートにより会社もその添乗員の評価をするので、どこへでも行きどんな仕事でも受けることができるようにしておかなければキャリアアップできなかった。
職業欄には「会社員」と書くけれどお給料は働いた分だけ、という世界だったので当時男性より女性が大半という職業。まあ、図太さにおいても決断力においても女性の方が向いていたかもしれない。
その、添乗員という職業も “20年後になくなる仕事” に堂々ランクインしているというので、この仕事のこと、この仕事から見たことを書き綴っておこうと思う。
仕事としてのツアーは大きく分けて二つ。
パンフレットなどの募集ツアーとオーガナイザーもの。
パンフレット募集は各々申し込むのでメンバーは基本知らない同志。
オーガナイザーものは例えば会社の慰安旅行や学校の研修旅行など、一団体としてのツアー。
何年経っても行く前日は緊張して、行くの嫌だなあ、と思っていた。
旅行だったらワクワクだけどこれは仕事なので緊張感は常に常にくっついていた。
写真のノートはパンフレット募集ツアー時、いつも作っていたノート。○日目、○時出発、準備するもの、案内すること、ホテル情報など細かく書いていた。
1ツアー1冊作っていたので今見てもなんとなく思い出す断片がある。
オーガナイザーものは日程表が詳しかったので、それに書き込むだけ。
こちらはなぜか残していない。
今だったらデータで持っていけばいいけれど、20世紀末、添乗員になった頃はまだ携帯電話も出ていない、今から見ればかなりアナログな時代だった。
